板付遺跡歴史クエスチョン
板付遺跡は、それ自体が歴史的ミステリーにいろどられています。
日本の稲作が始まった本当の時期は?
ムラの周りの深い溝は、いったい何の為にほられれたのか?
ここでは、少しまじめに、これらの謎をとりあげてみました。
教科書を塗りかえた縄文水田の発見!
米作りは弥生時代からではなかった!!
1978年(昭和53年)、板付遺跡Aゾーンのそばを通る県道505号線の南側で
縄文時代の水田が発見されたのです。
(遺溝は、板付弥生館から県道へ2〜3分歩いていったところ)
まず、県道505号線をまたぐように弥生時代の水田が板付式土器(弥生初期)
とともに発見され、県道の北側からは井堰が、南側からは水田に水を自由に
引いたり、出したりすることができる取排水口(溝)も発見されました。
このことは、弥生時代から高度な米作りが行われていたことを意味します。
また、弥生人の足跡も無数に見つかり、裸足で米作りをしていたこともわかりました。
板付遺跡弥生館に展示されている足跡は、その一つです。
では、なぜ足跡がきれいに残っていたのでしょうか?
さらに驚いたことに、その弥生水田の下に古い水田があることもわかったのです。
同じ地層から出てくる土器は夜臼式土器(縄文晩期)が多く、それに炭化した米粒や
稲穂を摘み取っていた石包丁まで発見されたのです。
このことから縄文晩期には、もう米作りが行われていたことになります。
それからの板付人は洪水との戦いの連続でしたが、決してあきらめませんでした。
縄文・弥生時代の水田が重なっていたこと、そして弥生人の足跡がそれを物語って
くれます。
その後、縄文水田は西日本を中心にどんどん発見されています。
福岡市では南区野多目遺跡、もっと古い水田跡としては佐賀県唐津市の菜畑遺跡が
ありますが、ここ板付の地が日本の米作りの発祥地の一つであることに間違いありません。
なぜ板付弥生のムラは、深い溝で取り囲まれているのか?
板付弥生ムラのまわりには、深い溝がめぐっています。
空から見ると、卵型をしています。
長い方の直径は約108m、短い方は約80mあります。
溝が一部途切れている場所があります。ここがムラの入口だったのでしょう。
溝の断面はV字形で、深さは3m、幅は6mもあります。
簡単に飛び超えることはできないし、落ちたら大変です。
はぎ取った土地をよく観察しましょう。(弥生館に展示)
溝の両側から土が少しずつ埋まった様子がわかりますか?
黄色っぽい土がありますね。これは溝を掘りあげた土と同じです。
このことから溝の両側には、掘りあげた土が盛りあげてあったと考えられています。
溝で取り囲まれたムラを環濠集落と呼んでいます。
こんなに深い溝を掘るのは大変だったことでしょう。
どんな道具を使ったのでしょうか?
完成するまで何日かかったのでしょうか?
そして、なぜ深い溝が必要だったのでしょうか?
敵から守るため、区画するため・・・いろんな説がありますが、まだよくわかっていません。
溝を掘る時間を計算してみると、
溝から掘り出された土の量は約2,763立方メートル
大人が一日掘りあげる土の量を1立方メートル(1mの正方形で深さ1mのこと)で
計算すると、
10人で9ヶ月もかかります。
※ 「板付弥生のムラ解説シート」より引用
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